合気ニュース1998年118号『スタンレー・プラニン 本誌編集長に聞く』抜粋

 

90年代に入りまして、斉藤先生と言えば岩間スタイルの合気道というようになりましたが…

――いや、もっと早くからです。岩間スタイルの合気道というのは、いつからとははっきり言えませんが、斉藤先生が外国人と話す時、〇〇流と言うのを避けて岩間スタイルとばかり言われていた、それが外国人には一番通じやすいということでね。そのうち、それが一般に使われるようになったのです。おそらく1980年代から言葉の中に出てたとおもいます。

岩間スタイル合気道というのは……

――まず、技の数が多いこと、そしてそれは基本から始まり武器技、それから剣術、杖術、体術が一つになっているという、大先生が戦後岩間で教えられた方法です。

その岩間スタイルで、海外の指導者間のネットワークが広がっていった……

――そうですね、外国人が岩間に行くようになってすでに28年くらいになりますから、しぜんとアメリカや、とくに最近ではヨーロッパで盛んになってきました。道場も海外ではおそらく100から150くらいあると思います。主に、アメリカ、スウェーデン、オーストラリア、イギリス、イタリア、デンマーク、スイス、ドイツ、それから最近ではフランスですね。日本のほうが海外より少ないくらいです。
 これは武器技を認めない人が日本には多いということですね。ですからメインはすでに海外ですね。先生も「このままいったら、少なくとも僕の習った本当のものは、みなアメリカへいっちゃうよ。そうなって、もう僕が岩間で動けなくなったら、『アメリカへ行ってこいよ』と言うよ。」と『植芝盛平と合気道』の中でおっしゃっていますね。

編集長にとって斉藤先生とは。

――藤平先生とは違う意味で、斉藤先生もカリスマ性のある方ですよ。藤平先生は慶応大学出身で、海外の経験も豊富であり、英語もおできになる。それに反して斉藤先生はずーっと岩間です。しかし生まれつき非常に合理的な考え方をもっている方で、それが技の組織化によく表れているのです。それに勤勉家で稽古や指導をしてない時は野良仕事をなさっている、なにしろ岩間の土地は広いですから。
 結局私が斉藤先生を師に選んだのは、自分に一番適っていたからですね。
 たとえば武器技ですけど、大先生の武道歴を調べれば武器技があるということははっきりしていますね、大先生の演武を撮った映画にもはっきり出ています。ところが、ほかの道場では武器技を教えても軽くやる程度です。ぼくは“完全”な合気道がやりたかった。
 藤平先生は、合気会を離れた段階では、あまり合気道技を強調していなかった。ご自分が工夫された氣ですね、氣の運動とか、氣圧を強調されていた。僕はあくまでも合気道がやりたかったのです、なぜなら僕の研究対象は大先生ですから。
 それに一番応えてくれたのが斉藤先生なのです。斉藤先生もいつも言われていますが、先生の役割は大先生から教えられたことを、そのまま残して次の世代に伝えることだと。そのためには、たとえば武器技のカリキュラムにしても、大先生がそれほどなさってなかった組織化を工夫された。それと、体術のやり方や教え方はできるだけ大先生の方法を守って、みんなに伝えようと思われているんですね。
 私が一番魅力を感じるのが大先生ですから、その方向を行く斉藤先生は、私にとっては非常に貴重な先生なのです。ですからこれからも死ぬまで僕の師匠というところでしょうか。

つまり、斉藤先生は今の合気道師範のなかで一番大先生に技が近いということですか?

――見たところはいろいろと違うところはありますけど、体型とかね。でも、先生は意識的に大先生の技を守ろうとなさってるんですね。
 ほかにも優れた先生方はたくさんいらっしゃいますが、その方たちは自分の習ったことや工夫したことに他武道をまぜて、かなり大先生とは違ったものにしています。それもすばらしいものと思います、確かに。でも大先生とは離れてきているんですね。

一番大先生の技に近いものを守ろうとなさっているのが、斉藤先生なのですね。

――私の解釈ではね。また、歴史家としての私にすれば、大先生の歩まれた道程を記録したいと思うし、開祖の残したものを記録したい、伝えたいという点で、斉藤先生と一致していると思うのです。